軽井沢

 
から帰りの新幹線の中です。

本日は、7歳上の兄の結婚式でした。

26年間、まともに会話したことがない兄。

幼い頃から私に対する暴力が耐えず

物心ついた時には会話が無くなっていました。

兄は昔、荒れていました。

中学時代は金髪にし、刃物を持ってケンカしにいこうとしたこともあった。

親が学校に呼び出されることも珍しくなかった。

高校時代は、埼玉では古豪と言われる学校でサッカーを頑張っていたようだけど

大学受験で失敗し、浪人し、予備校に通い何十、何百万の金を使った。

大学を出たけど、すぐには働かず

プー太郎を数年やっていた。

うちは経済的に余裕がある家庭ではなかった。

兄に金をかけ過ぎたことで

俺は予備校にはいけず、受験に失敗した時に浪人する余裕もないので

親の薦めもあり、指定校推薦で大学に進学すること選んだ。

本当は一般受験で、世間では難関と言われている大学を受けたかった。

兄のせいで、自分の人生が制限されていると思い込んでいた。

学生時代の俺は。

自分の実力不足、浪人が恐いという精神的な弱さを

兄のせいにしていた。

「兄の様には絶対にならない。」

「親に迷惑をかける人間には絶対にならない。」

と、幼い頃からずっと思っていた。

甘ったれてる。

高校まで好きなだけサッカーをやらせてもらい

勉強もロクにしない大学に

奨学金を借りてまで、数百万も払ってまで通わせてもらったのにも関わらず

人生が制限されている?

俺に自由を与えてくれるために

両親がどれだけ頑張ったのか知らずに。

自分事ですが、呆れています。

社会人として働き始めて数年、、、

少しずつわかってきた。

両親の大変さと

兄が抱えている思い。

気の弱い兄は

学校や社会へのイライラを、親や俺にぶつけていただけなんだと。

言葉で自分を表現することが苦手なんだと。

本当は優しい性格なのを、知っている。

俺が小学生の時、

体が弱く長距離走が苦手な俺が、持久走大会で自宅マンション付近を走ってる最中、 駐車場から応援していたこと。

俺の高校時代、サッカー部の試合で兄の母校と戦うことになった時は、

こっそり来て、グランド脇の木陰から見ていたこともわかってた。

俺が引退することになった高校三年の最後の試合も、スタジアムまで応援に来ていた。

改めて思い出すと、15年前、試合に敗れ、引退が決まった兄の最後の試合、大宮公園サッカー場(現NACK5スタジアム)で、私は兄の学校、浦和南高校を応援していた。

当時の私は小学生だったからよくわからなかったけれど、兄の引退を目の当たりにして、悔しいという感情が湧いたことだけは鮮明に覚えている。

兄は実力があったのに、顧問との相性が良くなく、試合には出られなかったことも、幼いなりに理解していた。

兄の敵討ちしようとしたつもりはないけれど、

中学時代、顔が似ているからと「はにわ」というアダ名を付けられて、

クラブチームに馴染めずにサッカーを辞めようと思っていた俺が

高校まで続けた影響は、兄の引退時に湧いた悔しさが少なからずあると思う。

奇しくも、兄がサッカー部を引退したスタジアムで、俺も高校サッカーを引退をすることになったけれども。。。

そんな兄の結婚式。

せっかくのめでたい日なのに

相変わらず、会話はできなかった。

おめでとう、すら言えなかった。

いつか

普通に会話をできる日が来るのだろうか。。。

様々な事情で

家族や兄弟など、それぞれにとって大切な人と、会いたくても会えない人がいる

くだらないプライドや意地で

会話ができないなんて言ってる場合じゃないことはわかっているんだけれど。。。